『鬼滅の刃 遊郭編』ドはまりした理由・感想

『鬼滅の刃 遊郭編』のTVアニメを見始めた時は「立志編も面白かったし、話題の鬼滅続編だし~」程度だったのに。

遊郭編が終わった時に気が付いたら、宇髄さんに堕ちてました。

立志編は炭治郎がわちゃわちゃしてて、猪頭がやけに美少女で、善逸の汚い高音がほんと煩い賑やかだなーと思い。鬼に強く何かを思うこともなく、なんなら柱合会議の音柱の印象もゼロぐらいだった…はず。

無限列車は劇場版は観てなくて、そのうちアマプラかNetflixで配信始まるからそれ待てばいいや、と。煉獄さんはいい人だし、TV版の無限列車最終回は「む、無念…」と思った。

そうして、軽い気持ちで配信を観始めた『鬼滅の刃 遊郭編』。宇髄さんの第一印象は、さっき書いた通り「何この左目周り。アイメイク?痣?ナニ?ガタイめちゃくちゃいいな、顔いいな。キラキラだな」←後半は妓夫太郎が並べる音柱への呟きみたい(笑)ちなみにこの時点で原作未読。

そのうちOP/EDでちらっと出てくる宇随さんの辛そうな過去が気になり、「原作コミック読もうかな?」と揺れ始め、TVアニメ遊郭編の最終話が終わって1か月も経たないうちに、遂にはバンダイプレミアムで宇髄さんグッズを探し始めてる始末。

今回遊郭編でドはまりしたことを考えると、立志編でそれほど吸引されなかったのは主人公は多分ストライクゾーンからずれてて、宇髄さんが特に後半の戦闘シーンあたりから見せる彼の本質部分にぐっと来たからなのかも、と自己分析。だって顔とガタイだけじゃないじゃないですか、彼!!!

遊郭編はNetflixやアマプラでほんとに何回も何回もリピート再生していて、自分でも笑えるくらいリピートが止まらない。どの辺が良かったのか、音柱のどの辺がツボなのか、自己分析を兼ねてちょっとつらつらと書き並べてみたいです。

以下、ネタバレ注意

『鬼滅の刃 遊郭編』の感想

※『鬼滅の刃 遊郭編』鑑賞時、原作未読状態。遊郭編最終話を観終わってから原作に手を出したので、鑑賞中は先が分からずひたすらハラハラしてた。

最初は「ザ・悪役」だった上弦の陸の堕姫。禰豆子が鬼化して派手に堕姫をやり込めたところあたりは、観てる方としてもしてやったり感満載で気分が良かった(笑)

音柱に頸を落とされた後、背中から妓夫太郎が出てきてからは、「それ反則だろー-!」と叫ぶこと数回。とにかく手に汗握る戦闘に次ぐ戦闘で、こっちまで酸欠になりそうだった。明らかに毒にやられてて紫の範囲が広がってきてるのに、元忍だから大丈夫と大見得を切る音柱が切なかったり。

最終話一歩手前まではクソ鬼だと思っていたのに

第十話「絶対諦めない」を観終わった時は、やっと頸が切れた!鬼狩り完了!よくやった炭治郎・善逸・伊之助・禰豆子、そして音柱!と思ったし、最後に宇随さんが逃げろ的なことを叫んでたから、最後に大爆発の気配だけどみんな生き残るだろうからハッピーエンド~とホッと胸を撫で下ろして、最終話はギャグテイストの後日談が来るのかなと思っていたら。

第十一話「何度生まれ変わっても」。宇髄さんの嫁3人のドタバタから、禰豆子に燃やされて宇髄さん復活!までは予想通り。お腹抱えて笑って、「いやお前も動くなよ。死ぬぞ」に、「それな」と思ったあと。

上弦の陸2人が鬼になるまでの壮絶な人生の振り返り。

「俺の妹が足りない頭で~」と妓夫太郎が口にしてたことから、妹を大切にしつつも盲目ではない兄なんだなと思っていたけれど。妓夫太郎にとっての妹がどんな存在だったのか、どれほど妹を慈しみ愛おしんでいるのか。彼が妹を何よりも大事にして、どれだけの年月どれだけの敵から彼女を護ってきたのか、が。そもそも彼が鬼になることを選んだのはなぜなのか、が明らかになって。

妓夫太郎の回想シーンは、うっかり呼吸を忘れる程度には衝撃的で、観終わった後もしばらく呆然と反芻してしまうぐらい重たく哀しかった。

生きていくこと自体が難しい環境の中で、取り立てられるだけの日々の中で、妓夫太郎に唯一与えられたものが美しい妹、梅。妹と比較して醜いと罵られることだってきっと増えただろうに、生まれに対して分不相応とも思える美しさを持ってしまった妹をあそこまで可愛がれたのは、同性ではなかったから、というのもあるのだろうか。

原作を読んだ後、vs兄、vs弟の鬼が何人かいたから、やはり飛びぬけた才を持つきょうだいが同性だった場合は嫉妬や憎悪の対象になりやすく、異性だったら憧憬または保護の対象になるのだろうかと。

梅(堕姫)の言動は、完全な妹思考が見え隠れする。護ってもらえるのが当たり前。傍にきて力になってくれるのが当たり前。うまくいかないことがあったら、絶対に何があっても助けてもらえる。

簡単にギャン泣きできるのは、癇癪を起こして駄々をこねることができるのは、宥めてくれる人がいるから。我儘を受け入れ、仕方がないと苦笑しつつも希望通りに事を運んでくれる存在がいるから。

梅は、鬼になったことによって強大な力を得て人間を傅かせることができるようになったけれど、彼女が認めてほしい存在は兄の妓夫太郎だけで、彼から可愛い美しい、よくやったと言ってもらえたら、それが一番の褒美だったのかもしれない。全面的に自分を肯定してくれる存在でなければ、簡単な我儘だって言えるものではないのだから。

炭治郎も宇髄天元も長男キャラで、護ることを存在意義としているような部分があると感じる。妓夫太郎もそこは共通していて、梅に頼られ甘えられ、梅を護りふたりで生きて行くこと、それだけが重要だったのかなと。梅が幸せな人生を生きていたら、妓夫太郎は自らが切り殺されようと鬼になることはなかったと思う。

何が何でも妹は守る、そのための強さを持っているし保ち続けていくと自分に固く誓っているであろうところは、炭治郎と禰豆子、妓夫太郎・梅きょうだいは同じだと思う。妹を想う強さと愛情深さは、どちらの兄もきっと変わらないしどちらにも負けない。

人生は理不尽の連続。生まれる場所も、国も、親すらも、人は選ぶことができない。銀の匙を握って生まれてくるか、平凡に生まれてくるか、特殊家業・家系に生まれてくるか、誰も何も選べない。それを集約して具現化したのが、妓夫太郎と梅の2人=上弦の陸なのかもしれない。『鬼滅の刃』に出てくる鬼の何人かは鬼になった切っ掛けに同情の余地があるけれど、この2人はその悲惨さが群を抜いていて、最終話を観るとただの悪い鬼と見なせなくなる。

鬼になってからの悪行はともかくとして、妓夫太郎が妹を救うために鬼になったことを、簡単には責められない。

妓夫太郎の後悔。生まれはどうしようもなかったとしても、「奪われる前に奪う」のではないもっと別の生き方を教えていたら、彼女は生きながら焼かれるようなことなくもっと幸せな人生を送れたかもしれない。たらればの話なんて意味はないけれど、彼女を導く兄としてもっとできたことがあったのではないかと振り返る兄の心が切ない。

奪われることしか知らない兄が、妹に別の道を指し示してやることなど不可能に近かっただろうけれど。

環境が悪かった。としか言えないのが、妓夫太郎・梅きょうだいに関してはなんとも歯痒い。本人達の努力でなんとかなる次元を超えているから。

炭治郎が妓夫太郎よりも恵まれていただけ。ただそれだけ。それを炭治郎が自覚しているのが、辛うじて救い。

妹を突き放して自分だけ地獄へ向かおうとする妓夫太郎が、背中にしがみついて絶対に離れないとギャン泣きする梅を背負いなおすシーン。いつでも、どこまでも一緒。その約束を信じ続けていた妹を、裏切ることができるはずないよなと思った。あそこは、突き放すのが愛ではないと言っていいだろうと。

地獄の業火の中でも、妓夫太郎はきっと梅を護ろうと全力を尽くすと思われる。彼女を生かし続けてやれなかった後悔がある限りずっと。

梅が心底兄を信頼していることは、激情に任せて兄のコンプレックスを抉りまくる禁句を連発したところからも分かる。いくら血を分けたきょうだいでも、超えてはならない一線はあるはずだけれど。悔しさで頭に血が上ったから、というだけでボロカス言い合えるあたりから、鬼として生きている年月が百年単位だったとしても、彼女の精神年齢は人間だったころの最終年齢と変わらない気配。

一見、もう和解は不可能に見えるような罵り合いも、炭治郎の手にかかれば妓夫太郎が妹の名前を思い出す切っ掛けになるなんて、さすが炭治郎(笑)

とにかく、『鬼滅の刃 遊郭編』は今までのストーリーの中では断トツのドラマパートだった。禰豆子の鬼力の高さも明らかになったし、天賦の才だけでなく実直に勝負する音柱の人柄や実力の高さも、すべてが相まって陳腐だけど感動的なストーリーだったと、ハマっても仕方ないなと自分を納得させられる内容だった。←沼落ちを正当化しておく

音柱 宇随天元に堕ちたワケ

※浮かんできたことをとにかく書き散らしてるので、かなりとっ散らかった叫びになってる。

OP/EDで出てくる過去の宇髄さんの姿。雨の中、折り重なる死体の前で涙を流し唇を噛み締める1人の忍。真っ赤な返り血を浴びて、背を向けて佇む宇髄ともう1人(2つ下の弟)。血に塗れた両手。穏やかに微笑む産屋敷。

本編で、彼に9人のきょうだいがいたこと、最終的に2人しか生き残らなかったこと、父親の生き方に添わない人生を選んだことが明かされる前から、派手好き音柱がただのチャラ男でないらしいことが垣間見えるけれど…

本編では、戦闘シーンと嫁&墓参りシーンを除くとコミカル(だけどカッコいい)なやり取りが多くて、爆笑の連続。イケメンは崩してもイケメンだし楽しすぎる。

見た目の良さはもちろんとして。装いの派手さは昔の反動だしキラキラが文句なしに似合ってるから文句なくて、その装いの派手さと反比例するかのような中身の冷静さ、誠実さ、実直さのギャップがなんかめちゃくちゃイイ。

恵まれた体躯と容姿は与えられたものだとしても、忍頭領一族の跡継ぎ候補として、一流の忍として育てられたのならば相当過酷な子供時代だっただろうし、努力なしにあの筋肉や体力、技量が身につくとは思えない。

文字通り血と涙を流し、自分と他人の血反吐や体液にまみれ毒を飲み、あまつさえ自分のきょうだいの血で掌を染めて。どれだけの苦しみを味わって今があるのかと。完璧にできて当たり前、命を懸けて当たり前。それを求められる環境で育ちながら、その価値観を全否定して命の優先順位を派手にはっきりつけられるその強さが、なんとも魅力的過ぎ。

嫁たちと穏やかな眠りを享受しているように見えて、静かに開いた瞼の裏に浮かぶのはあの雨の日の忌まわしき出来事。絶望に焼かれる己と、背を向け合う2歳下の弟は相容れない父親の複製。忍の里を抜けた後しばらくは「俺は地獄に落ちる」が口癖だったというから、その自責感は相当強かったはず。

普段そんな過去の闇は見せないけれど、「生きている奴が勝ちなんだ」なんてたまに出てくる真面目な言葉に、生死の狭間を渡り歩いてきた重みを感じる。なんかほんとに中身が詰まった人、善逸的に言ってみると、優しく静かでいて力強いのに気配がない音がしてそう。もしかしたら、鬼よりも醜い人間の闇を散々見てもいるんじゃないかと。

それにしても。脳筋・筋肉ダルマとも言われる見かけなのに、戦闘中にありとあらゆる情報を集め、分析して「譜面」を完成させるとか、それ脳ミソ筋肉じゃなくてハイスペックCPU積んでるでしょ。

闘いながら炭治郎の状態を的確に把握している視野の広さ(炭治郎が例外すぎて「なんでこいつ動けてるんだ?」になってたけど)、筋肉で無理やり心臓止めるような物理対応力、嫁たちの肩を借りながらも歩いて戦場離脱するタフさなどなど、何もかもが規格外レベルなのに、柱の中では一番常識人で、いちばん人の心の機微に敏いキャラに見える。やっぱりギャップ萌えの一種なのか…

あれだけメンタル・フィジカル共にハイスペックなのに、自分は天才肌ではないと、「俺程度で」と言ってしまえる客観性の高さ。判断の公平さと冷静さを考えると、一緒に戦うなら一番信頼できる柱じゃなかろうか。

もちろん、自分が救える範囲をきちんと線引きできる人だから、状況次第で切り捨てられる可能性もあるけれど。彼の下で彼と共に戦うのなら、捨て駒にされても納得できそう。鬼に食われない限り、ちゃんと回収してくれそうだし。ま、基礎体力つくりで死ぬほど走らされるのは遠慮したいけど(笑)

彼が隻眼隻腕になってしまっても穏やかな日々を、嫁たちと子供に囲まれて過ごせた1人になったのがちょっと嬉しい。痣が発現してないから寿命も短くないはずだし。対鬼ではなく、対人間で闇を見てきた人だから、ふぐ刺し食べながら温泉巡りする老後(?)を過ごせて、子孫を残せて良かった。

©吾峠呼世晴/集英社・アニプレックス・ufotable